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昔雑記だったページ。

「常識人」「優しい人」が“黙る”理由はこっちじゃないかと思います

先日小野ほりでいさんがトゥギャッチに書かれた「常識人は淘汰される? ネットの風潮を左右する”ヤバい人バイアス”とは」という記事、大変興味深く拝見させていただきました。

大変興味深く、というのは記事の内容だけでなくtwitter等での記事への感想を含めてのことなのですが、記事の内容とその感想も含めてこの記事で指摘されている「常識人」「優しい人」が黙るメカニズムについて見落とされていることがあるなと個人的に感じたので少々長いかもしれませんが「『常識人』が次第に黙ってしまうカラクリ」についての私見を述べたいと思います。

 

書く理由

黙るワケあれば喋るワケあり、そもそも人はなぜインターネットで意見を発信するのでしょうか。

 

 主な理由として考えられるのはその話題についてその人が関心を持っているから、ということになると思います。人は自分にとって関心のないことをネットに書くことはほとんどないと言ってよいでしょう、例えばサッカーにまったく興味のない人がJ2の試合結果に触れ「この前のセレッソ対ジェフはやばかった・・・前半0-0だったくせに後半になってから互いに4点ずつ入れるとかほんとなんなんだよw」などとネットに書くことはありません。政治でもスポーツでもマンガでも、ほぼ全ての領域についてこれは当てはまると思います。

関心があると表現するには熱が入りすぎているほどの何かしらの強い考えやこだわりを持つ人もネットで積極的に意見を書き込みます、引き続きサッカーで例えれば「Jリーグは今後こうした方向で行くべき、今の体制は××がダメすぎる!」とか「日本代表は~~なサッカーをするべきだと思うんだよなあ。。。あと協会も~~」などと何かしらの強い主張がある人が積極的にネットに意見を書き込むのは当然でしょう。

関心、ということについてもう少し触れると自分の関心というのは、自分の意思だけではなく社会の関心や自分の周りの関心によってつくられる部分があります。なので日頃サッカーに興味がない人でもTVやネットでも周りでも関心が高まるワールドカップについては周りが話題にしている影響で何らかの形でTwitterなりブログなりでワールドカップやサッカーについて触れる、というような現象が起こることがあります。元々その人にとって関心のない話題でもその話題について口にしてしまう、という現象にはこうした社会や周りの関心による影響が働いていることが多いのではないでしょうか。

 

さて小野さんの記事に話を移しましょう。小野さんが記事中で例え話として出したロン毛・スキンヘッド論争ですが、ここでは論争における中間層として「どちらもよいよ」「どっちもよくない?」という台詞を言う人が登場しています。中間層としての役柄のためか半分はロン毛、もう半分はスキンヘッドというとても大変な髪型になっていますが、それはさておきここでは中間層の彼(彼女?)はロン毛派・スキン派両者から敵対者として功撃を受けてしまったがために最終的にはその話題を口にすることをやめてしまった…というストーリーが示されています。このように極端な論争参加者からの攻撃を受けるのを恐れるために、避けるために“中間層”は黙ってしまうのだ…というのが小野さんの主張する「ネットである話題から優しい常識人が消えてしまう仕組み」ですね。

 

私はこのストーリーで中間層の方が黙ってしまった理由は、もちろん攻撃を受けたということもあると思いますが、「そもそも髪型へのこだわりも関心もたいしてなかった」から喋ることをやめてしまったのではないかと思うのです。

たとえ攻撃を受けたとしても強く譲れない考えがあればなかなか黙ってはいられません、これは今回の話で言えばたとえロン毛派・スキンヘッド派の両者から攻撃を受けたとしてもロン毛派・スキンヘッド派だけが論争に残るわけではなく「髪型で人を攻撃するのは絶対に容認できない」とか「ロン毛派でもスキンヘッドでもない我こそが第三の道○○毛派ぞ!」といった考えを持ちかつそれが強いこだわりや信念となっている方々がこのロン毛・スキンヘッド派論争に参戦してくるのではないでしょうか。

何らかの強く譲れない考えや強いこだわりを持つ人々がある話題・論争に触れなくなることはなかなかないでしょう、頻度の差こそあれ定期的にその話題には言及し続けると思います。

一方ある話題について喋らない人々・黙るようになった人々というのはこだわり/関心がない人・こだわり/関心を失った人…が多くを占めるのではないでしょうか、世間が注目している・ネットで話題になっている間は周りの影響を受けそこそこの関心を持っていた人でも世間とネットの関心が次第に移る時に彼彼女らの関心もまた移ってしまい、「黙る」ようになるのではないでしょうか。

 

 どの層・どの立場であれ関心がある限り、人はネットでそのことについて発信し続けますしこだわりや譲れない考えがあればなおさらのこと、「中間層」「バランサー」と見なされる立ち位置にいる人々でもこの考えは譲れないとかこの考えは容認できないと強く思うものがあればある話題についてネットで言及をやめてしまうことはなかなかないと思います。

一方で関心もこだわりもないことに人はネットなどで言及はしないでしょうし、かつては強いこだわりがあってもそれを失ってしまえば言及し続けることは困難でしょう。

言及をやめさせることに最大限貢献するものは、関心の喪失の以上のものはなかなか存在しないのではないかと思います。

 

発信し続けられる理由

冒頭では強い考え・こだわりを持つ人々がネットで積極的に持論を展開する、といったことを書きましたがそういった人々はなぜそこまで発信し続けることができるのでしょうか?

 「そんな理由なんて人によって色々、千差万別でしょ。」と言ってしまえばまあそうなのかもしれませんが生活を送る中でネットを利用する中で、そうした人々の情報・意見発信を促進させる以下の二つのものが存在すると私は考えています。

 

 現状への不満・危機感

人は皆それぞれ様々な事柄について様々な考えを持っています。

その考えを積極的に発信するのかしないのかを分ける要因には様々なことが関わっていると思いますがここで注目したいのは何かについての自分の考えとその考えの現実での反映度・尊重度がもたらすものについてです。

人は自分の考えが世の中のありとあらゆる場で反映されていたり尊重されていたり重要視されていてしかも異論を唱える者はほとんどいない…となっていれば何も言うことはないでしょう、一切文句無しの大満足。しかし現実にはある事柄について自分の考えが反映されていなかったり無視・軽視されていたり、目立ったり自分の目に付くところに自分の考えに異を唱える者がいたり…ということが多々起こるものです。不満や不快、危機感といった感情がここでは発生するでしょう。

そうした現状を変えるために、もっと自分の考えを広め、受け入れてもらうために、彼らは情報や意見を発信するというわけです。

そこまで大きな目標や意志がなくとも自分の思うところ・感じていることをネットに書くのは自然な行動です。こうした気持ちは日々の生活や趣味などの世界、マスメディアに流れるニュースやネットの言論空間に触れることでその多くは醸成されていくため、状況が変わらない間は日々の刺激がやむことはありません。

具体例を挙げれば政治・社会的な問題は自分の現在や未来の生活に他に比べて直結する領域のため強い不満や危機感があれば黙ってはいられないでしょうし、趣味の世界など自ら積極的に触れそして大事に思っている領域についてもその思いや接触頻度の高さ故に強い不満や危機感を持っている人ほどそれを口外しないのは難しいはずです。

こうしてある何かの現状について不満や危機感を持つ人とそうでない人の意見の発信頻度の差は分かれてしまうのではないでしょうか。

 

人を刺激し続けるSNSの構造

 上と若干被る話ではあるのですが今のネット、特にTwitter等のSNSには譲れない考えを持つ人やこだわりを持つ人々を延々と刺激し続ける機能があるのではないかと思います。

Twitterのような誰もが手軽に書き込めるネット上のスペースにはその発信敷居の低さゆえに日々大量の情報が流れています。

そしてフォローや購読といったシステムが備えられているサービスでは自分のフォロー・購読数が一定以上に達すると自分の手元には日々大量の情報が自動的に流れてくることになります。

こうした環境では種々の刺激が尽きることはありません、この環境ではとりとめのない書き込みや楽しい話題・思わず人に紹介したくなるいい話…等が沢山流れてきますが当然流れてくる情報はこうしたものだけでなく、中には怒りや悲しみなどをもたらすものも流れてきます。

怒りや悲しみをもたらす情報にも色々ありますが今回注目したいのは自分の譲れない考えやこだわりがある人から見ると容認できないような出来事・意見などの情報がそのうした人々に与える影響についてです。

そうした情報に接したこだわりの強い人は一体どういった行動をするのでしょうか?これがTwitter上の場合だと反論対象がTwitter上にいるorTwitter経由で伝わった情報(「こんな人がいた」「こんなニュースがやってた」等のツイート)であれば当該ツイートをリツイートしてその直後に言及、あるいはツイートのURLを貼り付けて言及、非公式RTで言及、あるいは“エアリプ”などの形で反論し、他のメディア等で伝えられたことならばURLなりキャプチャ画像や記事画像などを貼り付け言及…といった風にすかさず反論を行なうということは珍しくありません。

また反論対象の中に存在する同じように何からのこだわりを持つ人々も同じような行動をするためにそのうち対立する者同士で論戦(と呼べるものにならないことも多々ありますが)が発生します。この場面ではリツイートや貼り付けられたツイートURLの通知機能が互いの言ったことを互いに感知しあうことを助け、こうしたネットバトルの発生数の増加とその長期化に一役買っています。

 

こうした現象を支えている人間の行動傾向の一つに、人は考えや話題がまったく一致しない人やなんの関係も尊敬もない人をフォローすることはほとんどない、というものがあると思います。

何かしらのこだわりや譲れない考えを持つ人々も当然例外ではなく、ここにたびたびSNSやネットについての論で指摘される同じ考えを持つもの同士でつながりあうタコツボ化したネットワークがかなり独特の味やスパイスを備えた形で出現する、というわけです。

このタコツボ化したネットワークはネットワーク内で、ネットワーク同士で、互いを互いに刺激しあい永遠にさえ感じられるバトルの発生の増加と長期化をますます促進させる装置となるわけです。

当然自分の関心のないことに対してこのようなネットワークを作ることは困難です、なので自分の関心のないことについてこうした刺激を得る装置を持つことはほとんど無いというわけですね。

このようにある話題について強い関心を持つ人はタコツボ化したネットワークの力でますますネット上での発信頻度を高め、そうでない人々(その話題について関心を持たない人々)との発信頻度の差は一層広がっていく…というわけです。

沈黙の理由

 さて何かしら強いこだわりや関心や考えがある人々がなぜ発信しどうしてそれを続けられるのかについての私なりの考えについておおよそ書き終えたところで、最後になぜある話題においては「常識人」や「優しい人」が沈黙してしまう、あるいは沈黙したように多くの人からは見えてしまうのかについて書きたいと思います。

常識的な人って…?優しい人って…?

今回私が提示した理論によればその人が常識的であったり優しかったりすることはネット上での発信を妨げる要因にはなりません。

そうなると「じゃあなんで常識的な人や優しい人は黙るのよ?(黙っているように見えるのよ?)お前の理論じゃそれ完全に説明できてねーだろおい」と言われれば苦しい。

しかしちょっと待ってください、以下で指摘することによってこの即興の理論を延命させることができる…はずです。

 

この記事を何度読んでもいまいち分からないというか、「小野さんはこうしたことを言っているのだな。」と確証を持てない部分があって、それはそもそも小野さんの記事で言われている「常識人」「優しい人」というのは一体どういう人を指しているのか?という点なのです。

そこで未熟でキレもない自分の頭でそれなりに一生懸命考えた結果なのですが、これはもしかして「ネット上で(そんなことを)争わない人」のことを指しているのではないかな…?という解釈に行き着きました。

 

各自のこだわりや譲れない考え同士が衝突するのはそれが「こだわり」「譲れない考え」であるがためです、なので衝突が発生したときには互いに引くことはなかなかないでしょう。

そうした動きというものは世間で考えられているような「優しさ」とは縁が遠い光景かもしれません、他の場面では「優しさ」を見せる人であってもそこでは譲るわけにはいかないと考えているために「優しさ」をそこで見せることはないのでしょう。

ネットの論争の場に「優しさ」があまり見つからないのは――その争いが長期化すればするほど――こうした理由によって強い考えやこだわりを持つ者しかほぼ残らない構造になっている空間だからなのかもしれません。

またこだわりというものは他者から見れば理解困難なものも少なくありません、そうしたこだわりや考えを持つようになった背景というものは様々でありそれぞれ丹念に追っていくと「なるほどだからか…」と思えるものもまた少なくないのですが、そうした“文脈”というものを即座に理解するのは容易なことではありません。

それゆえに“文脈”が分からない領域で交わされる言葉を見たときに「なぜこんなことで争うの…?」という気持ちになるのは不自然なことではないでしょう。

また先に述べたようなその領域で主流ではない見方・考え方をする人ほど積極的に発信します。そうした意見というものは主流ではない主張故に当然即座の“文脈”理解は困難であり、またそうした意見は非主流派であるために広く共有された常識的な考え方ではありません、そのためそうした意見が飛び交う空間の中に「常識的」な人が存在しているように見えることはあまりないのでないでしょうか。

 

以上、冒頭から書いてきた様々な理由によって「常識的な人」「優しい人」はある領域においてその姿を見つけるのが困難になり「沈黙」してしまったように見えるのではないでしょうか。

確かに状態だけみれば思わず黙らされてしまったために喋らなかった場面も、そもそも口を出す気がないため喋らなかった場面も、喋ってはいないという点で同じに見えるのかもなのかもしれませんが、その内実には大きな違いがあります。

ネットに溢れる意見だけが全てではない、ネットの外にはいろいろな人がいるしネットのある領域では見つけにくくなった「優しい」人も沢山いるよ…という点には私も大いに同意するところなのですが、「見えなくなった理由ってこうじゃない?」ということを今回は長々と書かせていただきました。記事を読んだときからもやもやしていたものが(読んでくださったみなさんには大変読みにくいものではあるかもしれませんが)ある程度まとまりスッキリしているところです。

 

せっかくの長文なのでここで小野さんのような素敵なイラストと言葉でうま~くオチをつけられたらよかったのですが、私にはそんなものはとても描けないし書けないので…ここらで失礼させていただきます、ここまで読んでくださってありがとうございました。